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適応障害の体験談をブログに残します。30代・元ワーママ。

適応障害の体験談をブログに残します。30代・元ワーママ。
harimi

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私は一昨年、適応障害になりました。去年退職しましたが、まだ治療は続いています。

いったいどんな経緯で適応障害になったのか。わかりやすいパターンだったので、みなさんの参考になればと思い、ブログに書き残すことにしました。

自分にも当てはまるかも、と思った方は、すぐにでも病院の受診をお薦めします。

適応障害とは

日常生活の中で、何かのストレスが原因となって心身のバランスが崩れて社会生活に支障が生じたもの。原因が明確でそれに対して過剰な反応が起こった状態をいう。

例えばこのようなものです。

  • パワハラをされて、会社に行こうとすると体調が悪くなるようになり、出勤できなくなった
  • いじめを受け、食事がまったくとれなくなった。学校にも行けなくなった。

それって、うつ病じゃないの?

そう思われた方もいらっしゃるでしょう。

適応障害とうつ病の症状は、非常によく似ています。ほぼ同様なんです。

違いは、

ストレスの原因がはっきりわかっていて、それを取り除くと回復するのが適応障害

そうでなければうつ病

です。

適応障害からうつ病に移行してしまうことも多くあります。

適応障害になった経緯

結論、仕事のストレスからでした。

ストレスの多い仕事

1社目

運悪く、2社続けて自分に合わない企業に勤めてしまっていました。

1社目は、会社の環境が良くないうえに、上司からのモラハラを受けていました。

タイムカードはなく、毎日1時間のサービス早出、繁忙期になると毎日3時間以上のサービス残業。使っていないはずの有休が減っているのも毎年のことでした。

上司からは、全員のいる前での長時間の叱責(内容は理不尽なものでした)、手柄の横取り、無視、差別、などの嫌がらせを5年以上にわたって受けてきました。

特に、毎日のように「はりみが悪い」と言われていたんです。

確かに、私はよく失敗をしていました。それには理由があって、仕事のルールを教えてもらえなかったからです。分からないので質問すると

自分で考えろ

はりみ
はりみ

(自分で考えて)こういった理由からこうだと思うのですが、いかがですか?

そんなとんでもない方法、信じられん!

と叱責されます。

そのたびに「申し訳ありません。どのように判断すればいいのかわからないので教えてください」と聞いても、教えてもらえずにいました。

何度もくり返していくうちにわかったのですが、上司独特の複雑なルールがあったんです。完璧にその通りで無いと一切認めない、という人でした。それに加えてルールはよく変わるし、気分次第ということも。5分前まではAだったのものがBなんてことがしょっちゅうです。

しかしそのルールは、何度聞いても教えてもらえません。失敗扱いにされては叱責という毎日だったんですよね。

酷いときにはこんなやり取りまでありました。

はりみ
はりみ

AかBかの判断が必要で、私はAだと思いますがいかがでしょうか。理由は○○です

Aだなんて、△△や□□のリスクがあるだろう!そんなことも判断できないのか!とんでもないな!信じられん!(長時間の叱責)

そこに、上司のさらに上司が戻ってくると、まだ話しの途中でも会話を終えていました。

そういうわけだから

はりみ
はりみ

かしこまりました。ではBで進めさせていただきます

5分後。

はりみ。さっきのはやはりAでやっておけ

はりみ
はりみ

でしたら、リスク対策を考えた方がよさそうですね

(無視)

といった具合です。

私が会社のルールを会得できていないのが原因。私に問題がある。ずっとそう信じていました。「あるはずの仕事のルール」を何とか会得しようと努力していました。

そのために作った手書きのマニュアルは、支離滅裂になっていきました。それもそのはず、毎回答えが違うからです。

はりみ
はりみ

以前はCで、その前はDの方法を取っているな。どちらもケースは同じだけれど、何が違うんだろう?

そこで相談すると、また叱責されるという悪循環になっていきました。

悲しくて悔しくてたまりません。そのうち「完全に感情にフタをする」ことを覚えました。

最後には動悸やふるえ、朝立ち上がれなくなったり、視界がかすむなどの異変が現れてきました。

限界を感じ、退職しました。

まさか自分が病気だとは思わず「ちゃんとできない自分が悪い」と思い込んでいました。

なので病院を受診することもありませんでした。

はりみ
はりみ

「はりみが悪い」と言われ続けたことによって、そう思い込まされていたんだろうな

今ではそう思っています。

なぜ長く勤められたのかというと、上司のさらに上司に当たる人が、よくして下さったからです。

とはいえブラック企業なので、今思えばその人もなかなかにモラハラ気味な人ではありましたが…。

2社目

2社目では、自分のキャパシティを超えた業務と責任の重さ・理解されない仕事内容・時間外の連絡の多さがストレスな仕事でした。

未経験のアシスタントとして入社したにも関わらず、半年ほどで他のベテランメンバーが退社して1人になり、全ての業務と責任がのしかかってきました。

もう、分からないことだらけです。しかし専門分野のため、他にわかる人がいません。プライベートと睡眠時間を削ってひたすら独学をしました。失敗すると会社に損害が出てしまうので、いつも不安でいっぱいでした。

大げさかもしれませんが、例えるなら

車の免許を持っているなら、お客様を乗せて飛行機の運転もしてね

というような話です。

同じ「乗り物」でしょ?他に乗り物運転できる人、いないから

という理屈です。

自分のキャパシティを大幅に超えた働き方が、始まりました。

はりみ
はりみ

おかげで、かなり知識はつきました。しかしその努力は誰にも理解されませんでした。

ただ1人の専門職なので、周りから理解を得られなかったのが辛かったです。何が大変なのか、何が忙しいのか、まったくわからないんだそうです。

どれだけスケジュールが厳しいと訴えても「それでもやってもらわなければ困る」と社長に吐き捨てられたりもしました。持ち帰って仕事をしたこともありました。

時間外の連絡は、本当に多かったです。

退勤した直後から、LINEが鳴ります。パソコンのエラー画面の写真が送られてきて「どうしたらいいか教えて」という内容や、「お客様に説明するための文章を、すぐにメールで作って送るように」などです。

休みの日でもお構いなしに連絡が来ます。私が出産で産院に入院していたときでさえ毎日のように連絡がきていました。

娘とダイニングが離乳食でぐちゃぐちゃになっているのに、急ぎの対応をしなくてはならなかったときは、泣きながら対応したのを今でも覚えています。

上司には何度も「経験者のメンバーを増やしてほしい」「一人では無理」と訴え続けましたが、状況は変わりませんでした。それどころか、仕事をどんどん増やされていくような環境でした。

会社の環境は、グレーという印象です。理由は、何人もの新卒がメンタルを病んで退職していくような職場だったからです。年齢層が高く、新しい人を受け入れないような印象がありました。

また、過労死ラインまで残業している人がいたり、退勤後の仕事や連絡は当たり前という風潮でした。

妊娠、出産、育休

タイミングでメンタルの調子を崩す女性って、多いんですね。

私もそうで、出産から3ヵ月たつ頃には、寝不足でボロボロになりました。それでも、会社からの連絡は止んでくれません。少ない睡眠時間を削って対応するほかありませんでした。

娘が哺乳瓶拒否をしたため、約1年、完全母乳で育てなければならなくなりました。母乳の出がよくなかったので、毎日3時間おきの授乳を続けていたんです。食事制限も辛く、常に寝不足とストレスでいっぱいでした。

このころの夫は激務で、あまり家にいないタイプ。ワンオペな毎日が辛くて辛くて、仕方がありませんでした。

私の住む地域は保育園の激戦区でしたので、娘が0歳のうちに保育園を使い、復職することにしました。

復職

タイムアタックの毎日が始まりました。「間に合わない、間に合わない、どうしよう」半泣きになりながら苛立ちながらの生活。通勤時間は、ずっと走っていたように思います。

以前はフルタイムで働いていましたが、復職を機に時短勤務にしました。それでも、仕事の責任と量は、ほとんど減りません。

仕事が理解されていないので、こういったことが起こるんですね。

いくら仕事を詰め込んでも、終わらない。仕事を断っても命令だと無理強い、締め切りを伸ばしてほしいと交渉しても受け入れられません。

瞬きひとつ、呼吸ひとつが惜しいくらい、常に全力疾走をしていました。誰かと会話をすることも、息抜きをすることも、自分からはしません。まるで効率だけを考えて作られた機械のように働いていました。

いつの間にか、また「完全に感情にフタをする」ようになっていました。

仕事が理解されていないうえに、何をお願いされても反抗せずやり遂げる私は、次第に周りからこんな扱いをされるようになりました。

ちょちょっとやってよ

簡単にできるんでしょ

あ、やってくれたの。それ、もういらなかったんだ

あ、どうも(口先だけのお礼)

そんな声を頻繁に欠けられるようになったのです。

ああ、今まで真面目に頑張ってきたけど、いいように使われているだけなんだな。と、その現実を受け入れ始めました。心が折れかけていました。頑張れば頑張るほど、任される責任と仕事が増える。でも、もう無理。今まで何年も堪えてきたけど、もう限界。

そんな日々を送るうち、感情のフタがガタガタと閉まらなくなってきたのです。押し込めてきたものがまるで噴火しそうな勢いでした。必死に抑えようとしても、だめ。気が付くと私はとても短気になっていました。

はりみ
はりみ

こんなに頑張っているのに、終わらない。終わらせても終わらせても、降ってくる量の方が多い

はじめはそれだけだったのに、夫や娘に対しても、ちょっとしたことですぐに苛立つようになりました。

ストレスを発散したくても、する時間がありません。私が一人でゆっくり外出する日はゼロ。そんな暇があったら寝たい。誰にも頼れない。仕事もプライベートもギチギチに詰まっていて、苦しいー。心が休まる時間はどこにもなくなっていったのです。

恐れていた事態【このころから大きな異変】

私にとって最悪の事態が、起こりました。

私の能力のキャパシティをあまりに超えた出来事で、かつ長時間怒鳴られる、というものでした。

経緯はこうです。

お客様から「システムの管理会社を、私たちの会社から別の会社(A社)に変える」と連絡がありました。理由は価格の面でした。

お客様の希望は「A社にシステムを引継ぎしてほしい」というもの。

営業担当の判断で、私が対応することに。

そのシステムは大きくて複雑で、私では到底わからないことばかり。

システムを作った会社(B社)に連絡を取り、なんとか引継ぎをしていました。専門的すぎてわからない言葉、わからない仕組み。引継ぎ資料もなく。ひとつ間違えたらーと、心臓がずっとバクバクしていました。

最終的に私では手に負えない話になってきたので、B社に必死に頼み込み、A社とB社で直接連絡を取り合ってもらうことにしました。

もう安心。何とかトラブルにならずに済んだー

そう思っていたはずが。

動かないんですけど!

深夜、A社から会社にお怒りの電話がかかってきました。

聞くと、システムの管理をA社に移し終えたとたん、動かなくなったそう。

私の心臓は破裂しそうでした。

話を聞いてみると、A社は、B社に一切連絡することなくシステムを移してしまったとのことです。

はりみ
はりみ

実行前に、B社に確認していただくはずではありませんでしたか?

伝えても、なしのつぶて。とにかく罵声を浴びせられました。

弱っているメンタルに、刺さって仕方がありません。

この時ほど、強い怒りの感情を長時間にわたって受けたのは久しぶりのことでした。

上司に相談はしましたが、上司は専門外の人だったので、ほとんど理解してもらえませんでした。「なんとか頑張って対応してほしい」とのこと…。これ以上詳しくは書けないのですが、3ヵ月以上かかって、このトラブルを1人で収束させる羽目になりました。

一人で必死に頑張って、感謝の言葉もそこそこに、なのに怒鳴られる矢面には立たないといけない。

通常業務だけでも潰れそうだったのに、このトラブルは、本当にきつかったです。夜な夜な睡眠時間を削って、調べ物ばかりの日々でした。

この出来事がきっかけで、「怖い」「不安」「焦り」という感情に支配されるようになりました。

  • 誰も助けてくれない
  • 助けを求めても話を聞いてもらえない
  • また怒鳴られたらどうしよう
  • また分かってもらえなかったらどうしよう
  • 何か失敗してしまうかもしれない
  • 私が出来ない人間なのがいけないと頑張ってきたけれど、もうこれ以上頑張れない

手の震えや発汗、ひどい動悸にも襲われるようになりました。

自分のキャパシティを超えた出来事は、私をどんどん押しつぶしていったのです。

次第に、あまり何も考えられなくなっていました。命令されるがまま、仕事を振られるがまま、ただひたすら処理していく。家事も育児もひたすら処理していく。そんな機械のような生活になっていました。

肌は荒れて、いつも搔きむしっていました。家族の食事はなんとかしますが、私一人の昼食はいつも同じものばかり。食べたいものも特にありませんし、あんまり美味しくない。

ムネはキリキリ痛むし、いつもイライラしているし。

全く健全じゃないことは分かっていましたが、どうすることもできませんでした。

コロナにかかって、罵声を浴びせられる

そんな中、コロナにかかりました。

まだコロナ禍真っ最中のころ。会社に連絡すると、ある人から罵声を浴びせられたのです。

この仕事はどうする!困るじゃないか!

私は言葉につまってしまいました。もはや、どうやって会話を負えたのか、覚えていません。

怒りとショックで手が震え、動悸はあまりにも激しく、どうにかなってしまいそうでした。

その後は、酷いのどの痛みと高熱に苦しみながら、各所に電話をかけまくりました。仕事の調整のお願いのためです。

はりみ
はりみ

私が休んだら仕事がまわらなくなって困るんだったら、もう1人担当をつけてよ。ずっと訴えているのに。コロナで休むのは、仕方ないことじゃない。

ふっと、何かが切れたような気持ちになりました。そして、座り込んで震えながら大泣きしてしまったのです。

こんなに苦しい思いをしてまで、どうして生きているのか、分からなくなりました。

コロナから復帰したら、仕事は山のように積まれていました。他にできる人がいない仕事が多かったためです。

罵声を浴びせられたショックから立ち直れないまま、また働きだしました。しかし、いつまでたっても罵声が頭の中にちらつき、以前のように頑張れなくなっていったのです。

怖い、怖い、怖い…。何もかも、怖い。怯えながら出社し、逃げるように退勤するようになりました。

精神科を受診

冷静に自分を見ると、コロナ関係なく、体調はひどいものになっていました。

皮膚はボロボロになり、食欲も減り、夜は眠れない。息は浅く、動悸と汗と震えが頻繁にある。

そして周り全てが怖い。仕事が怖い。電話が怖い。周りの人みんなが怖い。

職場の人も。取引先も。お隣さんも。保育園の先生たちも。ほかのママさんも。店員さんにさえ嫌われているんじゃないかと思ってしまうほど。

これは、普通じゃない。気持ちの持ちようや頑張りで、どうにかなるものじゃない。自分は、おかしい。

もう自分でコントロールできるレベルを超えている…。

生まれて初めて、限界を受け入れました。総合病院の精神科に電話を掛け、受診して、適応障害だということがわかったのです。

同時に血液検査をすると、貧血や栄養失調や内臓疲労など、様々な問題も見つかりました。

そこから1年近く、通院しながら働くことになったのです。

適応障害の悪化

通院し始めたことを会社には報告したものの、仕事は変わらずそのままです。ひたすら耐える毎日でした。

そんな中、突然の部署異動が決まりました。私の大の苦手とする「接客」が必要な部署です。

一般的な部署異動とは少し違っていて、今までの仕事もしつつ、新しい部署の業務もやるようにという命令でした。

単純に、業務量の増加なんですよね。毎日1時間、接客業務が増やされました。

それでも会社のためにと、無理に無理を重ねて取り組みました。今思えば、これが最後の力だったのでしょう。

それでも、今までさえ持ち帰りの仕事があったですから、終わるはずありません。

新しい上司は、今までよりさらに専門外の人でした。「専門的なことは全くわからないから、全て一人で何とかしてもらうしかない」の一点張りで、次第に何も言えなくなっていきました。

私の体調は、相談していた上層部の人から、上司に伝わっていたようです。それでも、任される仕事は徐々に増えていくばかりでした。

退職を決意

忙しい毎日、止まってしまえばもう動けない気がして、ずっと走り続けてきました。

不安や恐れや焦りは、日に日にひどいものになっていました。

初めて精神科を受診してから11か月ほどたったある時。主治医の先生からドクターストップをかけられました。「休職」という言葉が出たのです。

辞めたら会社に迷惑がかかると思った私は、なんとかして働き続けたいと訴えました。

はりみ
はりみ

この時点で、冷静な判断ができなくなっていたんですね。

結果、働き方の配慮を会社に相談することに。診断書を提出し、勤務日数を減らして在宅勤務ができないかなどを、会社にお願いしました。

残念ながら、会社との折り合いはつかず、退職を決意したのです。

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このころ、変な咳に悩まされるようになったのをよく覚えています。一度出ると、えずくまで止まらないのです。2,3分は続くので、息も苦しくなるほど。それが一日に何度もありました。

吐くようにもなりました。命の危険を、うっすらと感じていました。

その後の回復

長く、苦しいものでした。

最初は寝てばかり、泣いてばかりの日々でした。

仕事を辞めたことによる罪悪感。これからの不安。

収入の面でも、無収入になるどころか、病院代も毎月五千円~一万円ほどかかります。

それでも病院の方々に支えられて、自分の気持ちを優先することで、だんだんと人間らしい生活ができるようになっていきました。

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退職から1年強がたった今、ようやく、本当に落ち着いた生活が取り戻せています。それでも、まだ投薬とカウンセリング、定期的な血液検査など治療は続いています。

適応障害は、原因となるストレスがなくなれば6ヶ月以内に回復すると言われています。私の場合、回復までかなり長くかかったようです。

はりみ
はりみ

原因となるストレスが、家事と育児にもあったからでしょう。そこからは離れられませんでしたので…。

確かに、退職して6ヵ月たつ頃には、かなり元気になっていました。それでも今振り返ると、「まだまだ無理している!」と言えるんですよ。

不思議なもので、毎月、良くなっているように感じるんです。「かなり楽になった」と思っても、翌月になると「先月はまだまだ無理していたな。今月こそ、かなり楽になった」の繰り返しです。

ですので、今この記事を書いていますが、来月には「まだ無理してたじゃない」となっているかもしれませんね。

うつ病に移行しなかったのが、救いだなと感じています。

まとめ

これで私の適応障害の体験談は終わりです。

適応障害は、想像より辛く、長く続くものでした。

心と体に異変を感じた人には、すぐにでも病院などと繋がってほしいです。

もしもこの記事を読んで、心当たりがみつかった方は、早めの受診を心からお勧めします。

はりみ
はりみ

ただのストレスや疲れではなく、「適応障害」。

このことが、広まってほしいと願っています。

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はりみ
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HSP×自閉症傾向ありかける自己肯定感の低い、アラフォーママ
HSP(非HSS型HSP)で自己肯定感が低く完璧主義な性格で、自閉症スペクトラムの傾向があります。適応障害と強迫性障害を経験したアラフォーママ(元ワーママ)です。

中学時代に自分が大嫌いになり、あらゆる挫折を経験してきました。ありのままの自分に誇りをもつのが目標です。

考え方や環境などを少しずつ変えて楽になった経験から、生きづらさやストレスを減らすための工夫やヒントを中心にお伝えします。
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