「遠慮と配慮の違い」を意識したら生き方が変わった話|HSP目線
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遠慮と配慮の違いって何だろう?
つい遠慮してしまうHSPだけれど、なにか楽になれる方法はないかな?
そんな疑問のある方に、お話しします。
遠慮と配慮の違いについて、HSP目線で書いています。
遠慮と配慮の違いを意識したら、コミュニケーションが前向きになって、生きづらさも減りました。
「遠慮と配慮」の違いを意識したら、変わったこと|HSPな私
2つあります。
- 人とのコミュニケーションが前向きになった
- 「遠慮のしすぎから感じる生きづらさ」が軽くなった
人とのコミュニケーションが前向きになった
理由は、自分から一歩、相手に近づこうとするようになったからです。
遠慮して何も言えないのではなく、必要なことは配慮しつつ伝えるようになったので、前向きなコミュニケーションをとるようになりました。
まだまだ言葉が出てこないこともありますが、意識が変わると、行動も変わるものですね。何とかその場で絞り出してみたり、他にどんな言い方があるか後で調べたりするようになりました。不思議と、「あの時こう言えばよかった~」という罪悪感を抱かないんです。
こんなふうに、遠慮と配慮の違いを意識することで、人とのコミュニケーションが前向きになりました。
「遠慮のしすぎから感じる生きづらさ」が減った
理由は、遠慮のしすぎで縮こまってしまうことが減ったからです。
遠慮して自分を押し込めるよりも、配慮しつつ何かしらの行動を起こす方がストレスが少なかったんですよね。
こちらも、まだまだどう行動していいかわからない場面も多いですが、確実に変化を感じ取っています。
おかげで、遠慮のしすぎで感じる生きづらさが減りました。
少しずつですが、自分の主張を言えるようになりました。
遠慮と配慮の違い|HSP目線
ここでは、辞書の意味合いとは目線をズラして、HSPな私が考えた「遠慮と配慮の違い」をお話ししていきます。
まずは、辞書での意味です。
人に対して、言葉や行動を慎み控えること。
辞退すること。また、ある場所から引き下がること。
心をくばること。心づかい。
次に、HSPな私目線での「遠慮と配慮」です。
- HSPにとっては、あまり何も考えなくても、楽に取れてしまう行動
- 相手のためのようで、結局は自分のため
- 生きづらさにつながってしまうもの
- 一歩引きさがる、我慢する、相手優先で自分をないがしろにする
- コミュニケーションで悩みがちなHSPにとって、勇気がいるし、頭も使う行動
- 相手のため
- 人生がひろがっていくもの
- 手を差し伸べる、一歩近づく、自分をないがしろにすることなく相手のことを考えられる
理由はそれぞれ、こうです。
遠慮は、「自分が相手に○○されないように」と考えているからです。例えば、相手に嫌われたくないから、相手の気を損ねて叱られたくないから、とかですね。
配慮は、「相手の状況がよくなるように」と考えているからです。例えば、相手がよろこぶかな、相手の助けになるかな、などですね。
HSPさんは自然と遠慮してしまう?
そもそも、HSPな私にとって、遠慮って割と楽にとれる手段なんですよね。空気を読んで言動を控える・一歩引く・自己犠牲が基本ですから。良くも悪くも、HSPさんが得意なこと、やりがちなことに当てはまりませんか?
ですので、HSPさんは自然と遠慮してしまうというのが、私の考えです。
遠慮が全てダメとは思いません。平和的に解決するには、時にはそういう手段も必要です。ここで大切なのは「本当に伝えないといけないこと」まで遠慮して言えないでいるのは、生きづらさにつながっていくということです。
遠慮して言わないのではなく、「配慮しながら伝えるように意識を変える」。これが私たちHSPには必要なんじゃないでしょうか。
配慮=相手のため なのですが、つい自己犠牲をしてしまうHSPの私たちには、『「自己犠牲をしなくてすむ範囲で」相手のことを思う』くらいがちょうど良いですね。
遠慮のしすぎから、生きづらさを感じるようになった実話
遠慮ばかりして自分を押し込めた過去
私の実話です。
昔から「相手を優先する」行動や言動が多い私でした。難しく考えなくても、自然とそういった言動ができていたんです。
長女ということもあって「下の子に譲ってあげて偉いね」「我慢して偉いね」そんな言葉の刷り込みも、あったと思います。
そこでよくとっていた方法が「遠慮」です。一歩引いて遠慮すれば相手は喜んでくれるし、周りにも褒められるからですね。
「遠慮すれば自分にとって良いことが返ってくるから」と、自分のためにやっていますね。
小さい頃は我慢してもお釣り(褒められる、認められる)がくるのでよかったのですが、大人になるにつれ褒められることもなくなります。だんだん不満が残るようになってきました。
それでも、周りが何をしてほしいかを察すると、つい遠慮してしまいます。遠慮は体に染みついてしまっていたのです。
社会人になると、自然と「へりくだる」「忖度」も身につけました。
日本人ならでは、ですよね。
運悪く、そりの合わない上司に、周りと同じようにしてもなぜか私だけ叱られるようになりました。それも毎日、大勢の前で。
そのうち「叱られたくない」「傲慢と思われたくない」「目立ちたくない」「嫌われたくない」「責任を負いたくない」…遠慮を盾にして、どんどん自分を小さな箱に押し込めて縮こまっていきました。
そして次第に「私はいてもいなくても関係ないから…」と無関心になっていったのです。結果、あらゆることに消極的で、ただの傍観者のようになっていったのです。
ここでも、「自分が○○されたくないから」と、自分のためにやっていますね。
「はりみさんは、いつも控えめで、良い人だね」
そう言ってくれる人もいましたが、純粋に喜べませんでした。自分を押し殺していることを誉められても、報われない気持ちでいっぱいだったからです。
さらには、まわりに軽く扱われることが増えました。今思えば当然です。自分で自分を大切にできていないのですから。
「自分の希望や意見は後回しで構わない」こんなスタイルを死守していたからです。他人からも、この人の優先順位は下げても問題ないと思われますよね。
遠慮を盾に身を守ることで、自分から、ぞんざいな扱いを受けるようになっていったんです。
そのうち、遠慮せずに前に出られる人を、羨ましく思うようになりました。
なぜなら、「遠慮せずズバッと物を言うけれど、周りから好かれている人」「遠慮せず主張することで得をしている人」がいることに気が付いたからです。その人たちは生き生きと輝いて見えました。
しかし周りとの軋轢を生んでいるところも見てしまったので、私には何がいいのかわからなくなってしまいました。
その頃は「私から”遠慮”を取ったら、ただ嫌われるだけかもしれない」そう信じこんで、ただひたすら耐えるような生き方をしていました。
遠慮と配慮の違いを知って
今思えば、私に足りなかったのは配慮でした。
最初にあげたように、遠慮って、結局は「自分のため」なんですよね。いつも自分を見つめていて、本当の意味で「相手のため」の行動にはなっていなかったんです。
きっと「遠慮せずズバッとした物言いでも、周りから好かれる人」は、ズバッと言いながらも、周りが気持ちよくなるような配慮ができていたのでしょう。
「遠慮せず主張することで何かを得る人」も、私が気づかないところで配慮をわすれず、周りにもいいことがあるようなwin=winの結果になっていたのでしょう。
それ以前に、遠慮してコミュニケーションをとらないのではなく、日頃から周りとの信頼関係も築けていたのだと思います。
遠慮のし過ぎで我慢しなくて済むので、いつも生き生きとされていたのかなぁ、と今では思います。
遠慮をしなくなっても、配慮を忘れずにいれば、きっと大丈夫。そんな風に思えたんです。
配慮しながら伝える方法「アサーティブ・コミュニケーション」
通っているカウンセリングで、臨床心理士さんから、アサーティブ・コミュニケーションがいいよとお勧めされました。
アサーティブ・コミュニケーションとは
アサーティブ(assertive)とは、「自己主張すること」という意味です。ただし、ここでいう自己主張とは、自分の主張を一方的に述べることではなく、相手を尊重しながら適切な方法で自己表現を行うことを指します。つまりアサーティブ・コミュニケーションとは、お互いを尊重しながら意見を交わすコミュニケーションのことです。
教わったときに「これは強敵だな」と思ったのが、「自分の感情や考えを、言葉選びに配慮しながら、素直に伝えること」です。今まで遠慮してほとんど言えませんでしたから。
臨床心理士さんと練習して一つ覚えたのは、無理なお願いをされたら最初に「困ったな~」ということです。いきなり「困ります!」というと攻撃的ですが、これなら柔らかいし、私の考えも伝えられますよね。
もちろんその続きに、代替案や、丁寧な断り文句も必要です。それら全てを含めて、アサーティブ・コミュニケーションと言います。
まだまだ練習中ですが、伝え方って本当に大切なんだと思わされます。
ちなみに、アサーティブでないコミュニケーションのタイプの1つとして、このように書かれていました。
受け身的タイプ
相手から悪く思われることを恐れるあまり、言いたいことを伝えられないタイプです。攻撃的タイプの人から強く主張されると、たとえ無理な主張であっても、受け入れてしまいます。真面目で責任感が強く、「頼まれた仕事が断れない」「他の人に仕事を手伝ってほしいと言えない」のがこのタイプの特徴です。
みなさん、思い当たるところはありませんか?私は思いきり当てはまりました…。
遠慮をやめるのが怖かった、過去の私へ
ずっと遠慮をやめるのが怖かったのですが、今はこう思っています。
遠慮する人しない人、どちらも、万人に好かれるわけではないのです。
遠慮する人を「控えめな人」と良く思う人もいれば、「消極的でめんどくさい」と嫌う人もいます。
同じように、遠慮しない人を「必要なことをちゃんという人」と良く思う人もいれば、「ズケズケいう人」と嫌う人もいます。
私たちHSPはきっと、遠慮できる能力をデフォルトで持っているんです。遠慮を全く忘れてしまうことはないと思うんです。ですから、生きづらさを感じるほど遠慮していた人が、良い意味で遠慮をやめたとしても、突然ずうずうしくはならないんじゃないでしょうか?
仮に「あの人、遠慮しなくなって、ずうずうしくなった」そんな風に悪口を言う人が周りに現れたとしたら、きっとその人は「遠慮する人が好き」だったんでしょうね。
自分の生きづらさの一つを手放したことで、その人と相性があわなくなっても、それは仕方のないことだと思います。その人との関係性と、自分の人生、どちらを優先するかを考えたらわかりやすいですね。
反対に、「積極的になったのね」と前向きにとらえる人も現れるはず。
そして、そんな周りの人たちの反応は、自分が変化してきている証拠じゃありませんか。
実際に、「遠慮と配慮の違い」を意識したら、コミュニケーションに違いがでてきました。怖がって遠慮してずっと声をかけないより、配慮しながら声をかけていったほうが仲良くなれるんじゃないか…。そう考えると、人に声をかける回数が自然と増えたんです。
コツは、声をかけた全員に好かれると期待しすぎないことです。「2:7:1の法則」がありますからね。
「2:7:1の法則」についてはこちらで書いています。
まとめ ~「遠慮と配慮の違い」を意識したら生き方が変わりました~
遠慮をやめるのが怖かった私ですが、配慮との違いを知って意識することで、生き方まで変わってきました。
同じ悩みをもっている方がいらっしゃいましたら、ぜひ参考にしていただけると嬉しいです。
みなさんの生きづらさが、少しでも軽くなることを願っています。